文/宮本美代子
写真/視野国際文化資料室
大渓と豆干

淡水河を溯っていった先にある大渓は魅力的な街だ。「大渓に行く」と台湾の人に言えば、ほとんど必ず「豆干を買ってらっしゃい」と勧められる。
■多種多彩の特産品

豆干とは何か。豆干を作るのは大豆を水に6,7時間浸して軟らかくしたものをすり潰して豆乳にするところから始まる。それに食用の石膏を入れて凝固させた後、布で形を整えて、その上からプレスして水分を出す。脱水させた後に味をつける。これで出来上がり。ちょっと見た目にはぺったんこの味付け油揚げとでもいったところか。

もちろん、大渓は豆干ばかりが名物というわけではない。台湾レトロの面影を漂わす街並みなど見どころがいっぱいだ。歴史と文化の漂う大渓をご紹介する。

大渓の地名の由来

大渓は元来、タイヤル族の住む土地だった。当時、タイヤルの人達はここを「大姑陥」と呼んでいた。これは「大水」という意味だ。乾隆帝年間に多くの漢人がここにやってきて開墾を始めた。その時に「陥」という字がよくないという理由で地名を「大姑ョr」に改めた。この後に何回か地名が変わり、日本統治時代に抗日運動の激しかった土地の名前を変えるにあたり、松山や三峡と共に、ここも「大渓」に変えられて今に至っている。

石炭の街だった大渓
清代に台湾に赴任した政治家、劉銘傳は大渓の山地開発を進めるにあたり、石炭、樟脳、木材を主要開発産業に決めた。そして日本統治時代に石炭の需要が急速に増えた為、大渓の石炭産業は飛躍的に発展した。1960年代頃が採掘量 の最も多い時期だったが、1966年に石油の輸入が始まり、1976年に石炭の輸入が始まると台湾各地の炭坑は打撃を受け、次々に閉山していった。大渓もこの例外ではなかった。坑道や当時を偲ぶ建物が今に残るのみである。順和煤礦坑や金面 山煤礦坑などがひっそりと草に隠れるようにして残っている。
 
■保存された街並み
繁栄の跡をとどめる和平路
大渓の繁栄を今に伝えるのが和平路だ。かつては木材、茶、樟脳などの特産品が船で運び出されていた。家の装飾も1919年前後のもので、レリーフが用いられたものが多い。バロック式のものも見られる。いかに裕福な人達がここに暮していたか、うかがい知ることができる。
豪商の私道だった月眉通路
和平路38号と40号の間にある小道はありふれた道のように見えるが、大渓の全盛期に月眉と市街地を繋いだ重要な道であり、月眉通 路と呼ばれている。ここは大渓の豪商であった李氏一族が商店街と月眉にあった自分の家を繋ぐために建設したという。
史跡・李氏古ュ�